• 黒木あるじ/怪談実話 無惨百物語 はなさない

     この本も2014年発売とかなり以前の本。
     既に新刊は入手不可になってしまっているので、中古本をネットにてゲット。
     これで、この著者の旧作も全て購入したことになる。
     これのみならず、福澤徹三氏など、結構読んでいる怪談作家さんの本は、ほぼ皆読んだことになる。

     この本の頃もまだストックが沢山あったのか、最近「無惨百物語 みちづれ」の時にも書いたようにこのシリーズに全力投球しているせいなのかは不明ながら、これまたかなり厚手の本でもあり、興味深い話の多い一冊であった。

     「霊視」確か郷内心瞳氏が、心霊スポットには新たに怪しが寄ってきてしまう、と書いていたような記憶がある。
     この場所もまさにそういったところか。
     元々は何の事件も無かった筈なのに、とんでもないものが棲みついてしまっている。
     この輩、霊的なもの、というよりは何だか宇宙人のような姿に感じる。
     そいつに触られると何かが見え離すと見えなくなる辺りは、まるでコメディのよう。
     そして、結局その友人はどうなってしまったのだろうか。
     怖かった、ということはあるだろうけれど、置き去りにしてしまった相手のその後を探ろうともしなかった、というのはちょっと非情に過ぎるのでは。

     「おそうじさん」まずは、優しく話しかけるだけで霊たちがそんなに素直に温和しくなるもなのか、という疑問を感じた。これまで聞いてきた怪談では、とてもそうは思えない事例も多かったので。
     しかし、その「おそうじさん」が亡くなってしまった後、抑えられていた怪異が再開してきた、ということなので、これは説得、では無く、何らかの力により抑え込んでいたのでは、と思い直した。
     それなら納得がいく。
     彼女の最期も、まあ単なる偶然という線もあるにせよ、尋常では無い気配もある。
     何かの反動、報復、なのかもしれない。
     叔母さん夫婦の不動産屋が、どうやら彼女に頼って営業を行っていたらしいことまで判り、オチも決まっている。
     その手の部屋を積極的に集めていたのかもしれないな。

     「お茶碗ちゃんちゃか」亡くなってしまった子どもが生前にやっていた癖。
     それが再現され、夫婦は喜ぶも、一年過ぎてあの世へ送り出そうとする。
     しかし、実は子どもに教えられた、という見ず知らずのおやじの仕業だった。
     興味深いのは、あの世で世間話のようなコミュニケーションが成立している、ということ。
     自分の癖を教えられるのだから。
     しかも、一旦あの世に行ってしまっても、この男のように戻ってくることも可能なようだ。
     それも驚き。

     「添い寝」どうやら、爺さんは孫が可愛いあまりに連れていきたくて仕方なかったようだ。
     また、その爺さんを祀らなくなってしまったのは当然かもしれないけれど、卒塔婆(これがそんなに長期間残っているだろうか)は焼け焦げ、墓石も切りつけられている、というのが凄い。
     そこまで恨んでしまったのか。

     「じきにんく」目鼻口がごまのように小さくなり、肌が半透明に透けている。
     しかも、口の中は歯ではなく黒いブラシのような毛がびっしりと生えている。
     もうこの姿が何とも不気味で怖ろしい。
     これまで見聞きした怪異の中でも有数の恐さだ。
     ただ、この言葉の解釈には疑問もある。
     これが「じきにいく」では、というお母さんの疑念には、結構納得がいく。
     母親の「こわい」に対応しており、何となく会話としても成立しているからだ。
     しかし、視える人の「じきにんき」では、という方は、どうもぴんと来ない。
     まず、「く」と「き」というのはあまり聞き間違えないだろう。響きが全く違う。
     それに先程とは反対に、それでは会話としては、大分不自然。
     しかも、前世人を食べたらそんな顔になる、というのも理解できない。
     第一、視えるからといって、何故前世などというものが持ち出されてこなければならないのかすら判らない。
     そこはその女性の独断でしかないのだから。
     この下りは不要とすら思える。
     その後連絡不通となってしまったのは、何とも残念。

     「古いテープ」拾ったテープから自分の名前を呼ばれたりしたら、それはさぞびっくりするだろう。
     しかもその声の演出も念が入っている。
     怪異からの粋な計らいだろうか。
     他所へ行ってしまったら、ちゃんとそれに合わせて対応した声が発せられる、というのも気が利いている。
     うまい。

     「校正」ファミレスで校正しようと持ち込んだ原稿が、ちょっとの隙に頁が入れ替えられ、登場人物にその場に無い赤ペンで×印が付けられていた。
     そして、実際その人物はその時点に急逝していた、という。
     親切なようでそうでもないし(それを知っても、怪談には関係ないのでは-内容によりけり、ではあるけれど)、一体何モノが何のために行うのか、気になって仕方がない。

     「ガゴハン」著者も記している通り、全く理解できない。
     どのエピソードにも何の繋がりも無いし、どれもその理由が判らない。
     しかも、時折あり得ないようなことも起きているけれど、それもまるで解明出来ない。
     ただ、そこには間違いなく「何か」がある。
     それがただただ怖ろしい。
     中でも一番不条理なのは、毎年父の命日にちょっとだけごはんに蛾が混ざり込む、という題名通りのエピソードだろう。
     他の一回きりの事件とは違って継続性があるし、大量というわけでもない。
     どうも意味合いが違うように感じてしまう。
     これも誰か何とかこの謎を解き明かして欲しいものだ。無理だろうけど。

     「家出の代償」語り手は家出をして神社の社殿に忍び込み、そこにあった日本酒を飲んでしまう。
     呑んだ時点では美味く感じていたのに、寝ている間に酒に喉を焼かれてしまったようで、それにより声を失ってしまう。
     やはり神罰というのはとんでもない、とまたしても思わざるを得ない。
     行為と罰に相応性がないからだ。
     確かにお社に入り込み供物に手をつけてしまうのは良くないのは確かだけれど、それでその人間に一生の重荷を負わせる程のものだろうか。
     こと神罰なので、いろいろ詮索しても仕方のないところながら、常識的に考えると疑念もある。
     語り手は酒によって声帯をやられた、としている。
     しかし、飲食した際、通常であれば声帯よりも手前、喉頭蓋、という部分が閉じて、気管の方に入っていかないようにしている。
     そうでなければとんでもないことになるからだ。
     これはうがいをしても同様で、うがいの水はせいぜい喉の入り口までしか入らず、声帯はおろか、喉頭蓋までも到達してはいかないようだ。
     とすると、日常的な行為としては、これは無理筋、ということになる。
     ただ、相手は神。
     何をどうやってもおかしくはない。もうお手上げ、である。
     一方で空き瓶から薬物は検出されなかった、とあるけれど、飲み干してしまっているようなので、少量では検出し難かったり揮発性の高いものだったりしたら、検出できなくなっていた、という可能性もある。

     「かみさまのいえ」ここで祀られているのは、神ですら無いのかもしれない。
     卒都婆で作った木箱に宿るモノなど、およそまともな存在ではあるまい。
     これがどんな由来で作られたのか、これを引き継いでいかねばならないのは何故なのか、どうも元からいる家では問題が無さそうなのはどうしてなのか。
     疑問が次々と湧いてくる。
     事の詳細が語られないので、確かに怪談であるかどうかは微妙ながら、普通ではない気配は明らか。

     「梯子」改装中の家の外壁に掛けられた梯子。
     そこに、びっしりと半裸で禿頭の男が取り付いていた、という。
     そして、その顔はまるで出鱈目な配置に。
     今回、顔に纏わる視覚的に怖い話が多い。
     ただ、語り手はこの二階に仏壇があると聞いてある種納得してるようだけれど、そんな単純に結びつくものとも思えない。
     とにかく不気味だ。

     「紅茶が苦い」紅茶が苦く感じて、その後寝込んでしまう。
     それだけなら、病気による味覚障害、と断じられなくもない。
     しかし、その薬罐に見たことも無い混入する筈も無い数珠が紛れ込んでいた。
     薬罐を捨てたら、その場所で老人が謎の焼身自殺を遂げてしまう。
     これも怪異かは微妙ながらなかなか気味が悪い。
     御主人がその死に様を執拗に語っていたのは、それも何かの力によるものなのか、単なる彼の趣味嗜好によるものなのか。

     「夜の鉄道」これはこの本最強と言えるであろう逸品。
     夜鉄道に乗ると消えてしまう一族。
     何故そんなことになっているのかは不明ながら、その犠牲者が多過ぎる。
     百発百中のようだし。
     願掛けが基らしい、とは言っても、どんな願を掛けたらそんなことになってしまうのだろうか。
     語り手は、その現象が起きる一歩手前を体験することが出来、何かが大量に乗込んでくるらしいことは判った。
     ただ、腑に落ちない点もある。
     これだけ強烈で紛れのない危険があるのに、妹は東京に就職したりするだろうか。
     東京で普通の会社に勤めるのだとしたら、夜鉄道に乗らないなど、およそ不可能。
     職場から歩けるところに住むのも簡単では無いし、仕事上どこか別の街に一度も行かないで済む、ということも難しいだろう。
     こんな話をしても信用されないだろうし、真剣には受け取ってもらえない筈。
     いつか、一線を超えてしまう日が来てしまいそうだ。
     これはどんなに考えても解決などしそうにない。
     今の時代、テレワークか起業や自営にすべき、だったのではないだろうか。
     どうもそこに家族の真剣味が決定的に不足しているように感じられ、この話の信憑性を大きく損ねている。

     「逝歌」これも一族に纏わるタブー。
     しかも、こちらはもう全く理由が判らないし、神も仏も絡みようも無さそうな話だし、そのわりに確実で厳しい禁忌だし。
     芸能人が普通に歌っている流行歌が不幸をもたらすなど、どうにも合点がいかない。
     ただ、最後に、人間の方が恐ろしい、というオチで締められている。
     これはどうもいけない。
     しかも、曲を歌うことが自体がタブーなのであれば、曲名を言って、これってどんな歌だっけ、と訊けば済みそうなものだ。
     まあ、このレベルを試した人もいなそうだし、これが駄目かどうか検証されていない、ところが厄介なのかもしれんけど。

     「夢死」自分の誕生日前夜に、必ず死んだ後の情景を夢に見てしまう。
     これは自分が真っ当に生きられているかどうか、確認出来る良い指標となってくれそうだ。
     次第に参列者が誰か判るようになりつつある、という。
     それが全て判るようになったとき、それが最期を迎えるタイミング、なのだろうか。
     でも、あらかじめ自分押しを繰り返し受け入れていく、というのは、悟りのようなもので、悪いことでは無さそうだ。

     「実現」話を盛り上げようとして咄嗟についてしまった嘘が、肉親に累を及ぼしてしまう。
     悔やんでも悔やみきれないだろう。
     まあ、それでも怪談好きで、この話も人に話している、というところからすると、そうでもないのかもしれないけれど。
     両親が起きた後、聞いたことのない歌を口ずさんでいた、というのは何故なのか、それは何なのか、とても気になる。
     但し、もういい大人になっていそうな兄が、両親の行方を眩ます瞬間を目撃していたのは何故か、という疑念は残る。もう一緒に寝ている、ということもあるまい。

     これも充実した一冊だった。
     面白く感じる話は、必ずしも長い話とは限らず、というよりあまり長さとは関係がない。
     なので、厚い本だから、ということでも無さそうだ。
     最近、竹書房怪談文庫の本を読んで、ここまでわくわくさせてもらえることなど、とんと無い。
     彼らも、一度きちんと考えた方が良いだろう。

    怪談実話無惨百物語はなさない

    posted with ヨメレバ

    黒木あるじ KADOKAWA 2014年06月22日頃

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