中山市朗/怪談狩り 葬儀猫

 毎度お馴染み、と言ってよい、この著者のシリーズ最新刊。
 例によって、左程怖い、と思うような話はほとんど無い。

 ただ今回、著者の代表作である「新耳袋」に出ていた伝説の怪談に纏わる新エピソードが後半を締めている。

 そして、それは個人的にもとても驚くべき、そして何とも懐かしい内容であった。

 「流行らない店」確かにそういう場所はある。
 今住んでいるところでも、駅直近の交差点四つ角、という立地、しかもチェーン店が入っていたのに、何回も変わってしまうところがある。
 しばらく前、大阪王将が入ってからはとりあえず保っているようではあるけれど。
 以前福岡でもそういった場所は存在したし、全てこれと同じ犬蠱では無いとは思う。
 というか、まあほぼこんなことではないだろう。
 それでも、こうしたことに由来する、というケースも有り得る、のかもしれない。

 「百三十円」些細な話ではあるのだけれど、どうにも辻褄が合わず不思議に感じる。
 中山氏の得意な領域だ。
 絶対に確認した筈の小銭が、いつの間にか無くなっている。
ところが、何とか金額の足りる他の物を買った、と思ったら、10円の釣りが出てきてしまった、という。
 その10円はどうやってどこを経由して、また現れたのだろう。
 まあ、既に自販機内に10円入れられた状態だった、という可能性もある。
 でも、無くなってしまった方の謎は残る。

 「山の集団」これも、何とも奇妙な話だ。
 山を登っていく、赤ちゃんまで連れた謎の人々、というのが既に怪しい。
 しかも、鏡に映らなかったり、顔のパーツが変に見えたりもする。言動もまともではない。
 他の人から見ると、正体不明の獣の群れにも見えていたようだ。
 語り手は、彼らを振り切って正解だったのだろう。
 読み手からすると、ついていったらどうなったのか、知りたくはなってしまうのだけれど。

 「大黒柱」年寄りであれば偶々、という可能性が高いだろうけれど、壮年の人間まで、それもあまりに短期間に相次いで亡くなってしまう。
 それ以外に何か怪現象が起きる、ということは無かったようだ。
 なので、もしかしたら怪異ではないのかもしれない。
 と思っていたら、オチがなかなかに怖い。
 家族全員、そのマンションのことについて一切の記憶が無く、行くことも出来ない。
 手紙などの記録も何故か消失している。
 それは、あまりに普通ではない。
 霊能者から、説明もしないうちに転居を勧められた、というのも驚きではある。
 ただ妙なのは、それが始まったのが転居して10年経った頃から急に始まった、ということ。
 何かきっかけとなることがあったのだろうか。

 「心霊本」怪談本、特に心霊写真本を読むと怪異を呼んでしまう。
 時折聞く話だ。ただ、語り手と友人の二人とも同じ体験をしている、というのはなかなか強烈だけれど。
 この事例の興味深いところはここでは無く、自分が買って友だちに押しつけた本が、また自分の手元に戻ってくる。
 それだけならかなり珍しくとも偶然、とも言えるかもしれないけれど、怖い目に遭った友だちが封印していた筈の箱から消失し、姿を現した、という事実。
 語り手と何か因縁があるのかもしれない。

 「大毎地下名画鑑賞会」左程怖いとは感じられないけれど、不思議ではある。
 本来なら賑っている筈の会場に到着したら、全くの無人。
 更におかしいのは、他のフロアも知らないものへと置き換わってしまっていた。
 時間を超えてしまったのだとしたら後半はちょっと妙だし、通常そうしたところは使用時以外は入れなくなっているもの。
 むしろ、何か別の世界に入り込んでしまった、と考える方が納得いく。

 「神隠し」山の中で次々と怪異に遭遇し、最終的に弟は行方不明になってしまう。
 弟は一体何モノに連れていかれてしまったのだろうか。
 そして、その後どうなってしまったのか。
 何とか助けようとし、腕まで掴んだのに取り戻せなかった、というのは一生の悔いになってしまっているだろう。

 「捜索」前の話だけで終わりでは無く、その後全く別の山でそれらしき人に遭遇している。
 そして、10年を経て、いなくなった因縁の山で、弟の遺体を発見する。
 どうしてこの段階で殺されてしまったのか。
 しかも、語り手が山に登ったタイミングで、送り返されるかのように現れている。
 途中語り手が見掛けた儀式のようなものは何だったのか。
 弟はずっとこれを行われ続けていたのか。
 既に大人だった弟の手紙が要領を得なくなってしまっている、というのは、やはり意識、もしくは精神に何か起きてしまっていたのだろうか。

 「杣の山」木島坐天照御魂神社の三柱鳥居、実際に拝見したことがある。
 確かに池の中にある小さな島に三方を向いた鳥居が建っていた。
 建造時期は1831(天保2年)だそうだけれど、それ以前には木製だったかも、という話もあり(北斎の絵によるらしい)、果たしていつ頃からあったものなのかは定かでは無いようだ。
 これは違うけれど、意外と近現代になって突如作られたものもあったりするし。
 少なくとも、キリスト教徒の繋がり、というのは近代になってから出てきたトンデモ説としか思えない。
 著者一行は、岐阜にある三柱鳥居を調査しに行き、道を見失ったりカメラが消えたり現れたり、といった不思議に遭遇する。全く怖くは無い。
 この本の中では、昔から伝えられてきたもので、もしかすると太秦のものより古いのでは、などとも書いてあったけれど、調べてみると、平成に入ってからの建造とか。まるで古いものでは無い。
 よく読んでみると、鳥居に着いてからは、目の前にあって触れたり入ったりも出来る、と書いてあるだけで、それ以上のことには全く触れていない。
 明らかに新しいものと判り、がっかりしたのではないか。
 改めて本物の三柱鳥居に夢を感じる、そんな話だった。

 「八甲田山怪談の背景」この元ネタは、「新耳袋 第四夜」に登場する、このシリーズでも屈指の恐怖噺として名高い怪談である。
 これを新耳で読んだ時、驚いた。
 この話、既に知っていたからだ。
 会社員に成り立ての時分、世はまさにバブル絶頂の頃合い、当時もかなりの怪談ブームで、大学時代からの友人などと、よく怪談話に興じていた。
 当時は子供だましなものを除いてあまり怪談本などは無く、テレビネタか口コミでの伝承が中心だった。
 そんな折に友人から紹介された女性、自分でも時折見てしまう方で、幾つものなかなか興味深い話を聞かせてもらった。もうほぼ覚えてはいないけれど。
 しかし、あまりに強烈で忘れられない逸品が一つあった。
 それがこの「八甲田山」だったのだ。
 彼女からは、友人の弟が体験した話だ、と聞かされていた。
 とにかくそれまで聞いたことも無い程(その後もおよそ無い)怖ろしく、怪談としての出来も良かった。
 なので、当時の友人たちや入って間もない会社の同期など、あちこちで披露しては皆を震撼せしめる、という鉄板ネタともなっていた。
 それが10年程経ってから、突如怪談本のエピソードとして姿を現した。
 何とも懐かしく感じると共に、かなりの違和感も感じてしまった。
 本で紹介されていた内容は、ほぼ聴いていたものと同じだった。否、違う、と思える部分が無いとすら言えた。
 しかし、ここで発表されているのは、話の全てでは無かった。
 この話のオチ、何故これが異様な程リアルに感じられ、恐怖せざるを得なかった、結末部分が、すっぽりと抜け落ちていたのだ。
 体験者と一緒に酷い目に遭った友人たちが皆亡くなってしまい、怖れをなした体験者は大学を辞めて実家に戻ってしまった。
 それ程の事態、冗談や気の迷いで出来ることではない。
 なので、それはやはり本当にあったことなのではないか、そう判断したくなる内容だったから、一層真に迫っていたのである。
 そこが納得出来ず、二次的に伝わった話なのだろうか、などと思っていたものだ。
 その謎が、ここで一気に解けた。
 まず、この話の語り手。
 それは体験者の姉であった。
 つまり、昔語った人の言と全く同じだ。
 しかも、その結末部分も、寸分違わず語られてはいたのだ。
 ただ、あまりに障りが生じてしまったために、一部封印することで掲載できるようにした、ということらしい。
 ならば納得がいく。
 しかも、こうして全く違うルートで確認が取れたことで、はっきりと語り手、ひいては体験者が実在することも証明できた。
 その後著者たちに起きた出来事は、あまりたいした怪異でもないので特に感慨はない。
 それでも、こうして若かりし頃の怪談について、改めて知ることが出来、何だか嬉しくなってしまった。
 ただし、この怪談、一点どうも腑に落ちないところも存在している。
 本の帯にも取り上げられていたように、八甲田山中で兵士(の霊)に囲まれた際、彼らは口々に「右腕が欲しい」「左脚が欲しい」などと叫んでいた、という。
 でも、よく考えてみると、彼らはあくまでも雪中で遭難した人々。
 戦闘地域でもなく、体の部分だけが欲しい、というのは何ともおかしな要求に感じられる。
 どういうことなのだろうか。

 こうして振り返ってみると、意外と印象に残っている話は多く、しかも霊現象、というのでは無い不思議談を幾つも堪能できた。
 しかも、後半で思わずとんでもない収穫まで得られた。

 個人的には、是非手元に置いておきたい一冊となった、と言えそう。
 時折、思い出すために読み返してみたい。
 

怪談狩り 葬儀猫(9)

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中山 市朗 KADOKAWA 2023年09月22日頃