この本も、一冊が一連の話になっていて、一つ一つのエピソードを独立して評価することは出来ないものがほとんど。
強いて挙げるなら「だいぐれん」の話は、本編の参考として取り上げられたものではあるけれど、それ自体興味深い。
まずは、語り手が体験した最初の怪異で、隣家の主人が何とも気味の悪い様子で消えていく。確かにとんでもない。
四五日後に再度現れた蔡には、今度は母や姉が死んだことをまるで忘れて普通に会話を交わしてしまう。
これはどういうことなのだろうか。そして、何故語り手だけは正常な認識が出来たのか。
全く違う二つのエピソードが、どちらも珍しい貴重な事例だ。
「本編」については、全体を通じてオカルト好きのオフ会で盛り上がった雑談をそのまま書き連ねてしまった、ような粗さが目立つ。
それぞれのエピソードは嫌いでは無い。
しかし、繋がりが強引でとてもついていけない。
元々、大前提になっている石礫に字のようなものが書いてあった、というのも曖昧な記憶でしかないし、それが「妙」のようにも見えた、というのはどちらかと言うと結論ありきで無理矢理導き出されてしまった印象が強い。
そこからさらに一足飛びにその石が法華経の一石経である、と断定してしまうのは、あまりに根拠が薄弱で論理に飛躍がある。
あくまでもその可能性もある、位なら判るけれど。
新興宗教の話なども元来結構好きな方だ。
京極作品でもその類の話となると俄然興味が増す。
けれど、トリックの奇矯さは別として、やはり当然とは言えこの作品よりもっともっと上手く組み立てている。
ここでは、先の砂上の楼閣の上に更に壮大な幻影城を構築してしまっており、最早地上にはほとんど接点を持ち得ていない。
その一石経(かもしれないもの)と蓮門教を繋ぐのも、あくまでも法華経信仰、という一点のみなので。
さらには、時折現れる女性と女子高生の一団。
これなど、申し訳ないけれどもう本当にあったこと、とも思い難くなってしまっているのだけれど、もしこれが現実にあったことだとしても、その女性が指差しているのが月で「月を見ろ」というメッセージだ、というのは、まるっきり受け手の解釈によっているだけの話。
これも答えが先にある。
また、途中何度も「残穢」という小説が引き合いに出され語られる。
しかし、この小説のことなどまるで知らないので、何を言っているのかまるで理解できない。
このように読者を置き去りにして判る人間だけ判れば良い、という態度もプロの執筆者としては感心できるものでは無い。
むしろ疑問しか感じない。
怪談本には不要としか思えない登場人物同士がかまし合う笑えない小ギャグの応酬には目を瞑るとしても(まあそれも興を殺ぐ大きな一因ではあるのだけれど)、とにかくそうした身内受けばかりが悪目立ちしており、まるで常連しかおらず、一見で間違って入ってしまったとしても居辛さしか感じられない居酒屋のような居心地の悪さだけが残る。
繰り返しになるけれど、扱っている素材そのものには興味を惹かれる。
それをもっと素直に語ってくれるなら、読後感もましなものになっただろうに。
迷うけれど、今後この著者の本を買うかどうか、悩んでしまいそうだ。
羅刹ノ国 北九州怪談行posted with ヨメレバ菱井 十拳 竹書房 2021年04月28日頃 楽天ブックスで見る楽天koboで見るAmazonで見るKindleで見るhontoで見る