文庫での百物語、となると相当に短い話中心、ということになる。
以前なら物足りない、とまずは思ってしまうところながら、最近は妙にショートショートに開眼してしまった感もあり、これまたそれはそれで結構楽しめた。
まずは早速二話目の「息子の墓参」。
短いながら、驚くような展開。
墓に日本酒を掛ける、というのはお話では聞くけれど実際に掛けることもあるのだ、と認識を新たにされたと思ったら、「しきたり」という因縁ワードが飛び出してくる。
そして墓石が揺れる、という現象も驚きながら、よくあるように好物をお供えして、というのでは全く無かったことに衝撃を受ける。
一体どんなことがあったのか。これ以上の取材はやはり難しかったのだろうか。
何よりも衝撃を受けたのは、こんな現場を目撃してその相手と結婚しよう、と決意した語り手に対して。
これまでの話ならそれで別れを決めたりするものなのに、凡百の怪異よりも強烈なこの一件を目撃しながら、それをものともせず(勿論葛藤などもあったろうけれど結果として)乗り越えてしまう、というのはこれはこれで別種の恐怖を感じた。
初っ端からなかなかにヘビーであった。
「けむり」では言わば「霊体」を捉まえてしまう。貴重な事例であると言える。
「夏のサーカス」は時折登場する「嘘の記憶」もの。
一回だけの話なら夢かも、と思えるけれど、毎年、となるとそうもいかない。
勿論、毎年見ていた、という記憶自体を夢で見てしまった、という可能性は否定できないけれど、不思議な話には違いがない。
何だか哀愁の漂う雰囲気も結構好きな掌編である。
「おとしもの」のような話も面白い。やはり神の御利益だったのだろうか。
ただ、時代を反映してか携帯を利用しているあたりは興味深いし、亡くしていないものを拾ったと言うなど辻褄の合わないところも奇妙で惹かれる。
「好き嫌い」はなかなかヘビーな話。いわゆる人が一番怖い、タイプでもあるのだけれど、神様をこのような視点(好き嫌い)で捉えたことがないので新鮮だった。
目を開かされた。
「たすべからず」これも勉強になった一編。「御不浄」がそんな意味だったとは。
出てきた怪異はよくある「隙間くん」ながら、その由来などを含めて考えると面白い。
「はいおんな」「はいおとこ」については、読んだ段階では「はいおんな」の方には何十年考えて判ったと言っていたのに、その答えとなる「はいおとこ」が数年後のことだというので辻褄が合わないな、と気になってしまった。
しかし、今回読み直してみると、後者をふまえて結論に至った、とあるので、ようやく納得がいった。結論まではすぐに辿り着けなかった、ということなのだと。
「S氏の証言」も宗教絡みのネタ。
色々と勉強になる。
「発火装置」のような因果が感じられる話も興味深い。
一族皆そうだということは昔何かあったのだろうか。それも本当なら知りたいところ。
「春倉氏の話」これを怪異と断定してしまうのはあまりに危険過ぎる。
割り箸をとんでもない形にする、というのは確かに簡単なことではない。
しかし、それを目の前でやられたのならまだしも、置いていった、ということなら事前に持ち込めばすむだけの話だ。
木を茹でて圧力を掛けると結構自在に形が変形する(また茹でると元に戻る)というのはネットなどでも有名な話。決して作れないことはないのだ。勿論大変だろうけれど。
その前に著者自身がかなり胡散臭そうな能書きを語ってしまっているので、尚更信憑性が下がってしまう。
万が一、目の前でやられたとしてもマジックである、という疑いは晴れないのだ。
第一、巫女と割り箸加工の間には何だか乖離がある。やはりトリックの匂いがしてならない。
「忌み森」昔から森には何かしら神聖なところがある、という話は時折聞かされる。
確かにそうなのかもしれない。語り手はさしたる罰にも逢わなかったようなので何よりだ。
ただ、著者は何故こんな下品な質問をしたのだろうか。と言うか本当にしたのか。
これが日常だとすると、語り手にあまりにも失礼なのではないだろうか。
なので、このくだり、展開を面白くするために「盛った」やりとりに思えてならない。
「たまさかの本」こんな出来事に遭遇したら、体験した本人は何かしらの運命を感ぜずにはいられないだろう。それには疑問も無い。
ただ、冷静に判断するなら、偶然である可能性もまた否定できない。
ことにこのエピソードの中にある幾つかのキーワードがそれを可能にしてしまう。
まずは「チェーンの大型古書店」。こういった店の場合、新規オープンとなると、他の店舗から大量の本を持ち込んでくると思う。なので、九州で売られた本が北海道にあっても不思議とは言えない。
さらに、相手が亡くなってしまっていること。遺族がその機会に本を処分する、というのもまた充分に考えられる行動だ。
それを重ね合わせれば確かにとんでもない確率の奇跡、と言っても差し支えはないけれど、そこに自然ならざる力を持ち出す必要もまた無いと考える。
実際、何故、というような偶然・奇跡というのは数限りなく発生しているものなのだ。
「ペガサス」流石アメリカでは怪異もまた西欧風。悪魔のような異形のものとの遭遇譚だ。
確かに羽の生えた馬、というのも妙なものだし、こちらが真相、という可能性もある、のかもしれない。
「むらすて」もまた森や山に関する禁忌話。
無数の獣が移動していく様、というのはさぞかし壮観だっただろう。それは決して楽しめるものではなかったようだけれど。現実にあっという間に廃村になってしまったというのも凄い話だ。そのままいると一体どんな目に遭ってしまうのだろう。
「予言者たち」については、やはり相当に疑義を感ぜずにはいられない。
まず第一に、旅行会社はその参加者の住所・氏名というのはきちんと確認しリストとして作るのが必須な筈。
第一、通常旅行前には添乗員の方から確認の電話まで入ることが多い。
だとすると、募集されたものを見た段階で、明らかに違う名前の人々が同じ住所だったら怪しむと思うし、その確認もするだろう。
特に海外となるとパスポートの確認だってするところが多いのでは。そこではどうなっていたのだろうか。
何だかこの話、ツアー旅行など行ったことが無い人間の「考えた」話、という気がしてならない。
もしそうで無いと言うのなら、なぜそういった疑問をくぐり抜けてしまったのかその理由を知りたい。
「起きてみたら」いきなりのテレポーテーション。これは驚くだろう。
語り手が超能力者である可能性も否定できないながら、その因縁も含め好物の一品だ。
「不器用なキャベツ」いやいやいや「まだ悩んでいる」じゃないだろう。
そりゃいかんだろう、どう考えても。1%も悩むところなど無いとしか思えない。
しんみりと夫婦の情愛を見せる泣かせる話かと思いきや、とんでもないオチをぶち込んでくれた。
最低でも今の家から引っ越す位のことはしないと、とても安心して暮らせる気がしない。
語り手は平気なのだろうか。ちょっとでもいける、と思っている根拠は何なのだろう。
今回は語り口としてはドライに現代的なものばかりだったものの、神さまなど宗教に纏わるもの、森など自然に関わる話なども多く、やはり民俗的なアプローチが目立った。
それはそれで持ち味として貴重なものだ。
ただ、今回は著者の言い訳のような語りがしばしば挿入されている。
より取材時の生な空気感を出したい、というトライなのだとは思うけれど、その否定的な言質が結構その話の胡散臭さをずばりと言い当ててしまっていたりするので、こちらまで興醒めしてしまう。
入れない方が良いのでは無いか。
元投稿:2015年10~12月頃?
無惨百物語posted with ヨメレバ黒木あるじ KADOKAWA 2015年05月23日頃 楽天ブックスで見る楽天koboで見るAmazonで見るKindleで見るhontoで見る